流されて大阪湾

人生、いざとなったら西成やで(^^) 

ドヤ街はどこにある?西成?あいりん地区?釜ヶ崎?それぞれの名称。

世間一般では「日本最大のスラム街西成」「暴動のまち西成」「ディープなドヤ街の西成」・・・などといわれている西成ですが、行政区画としての西成は総面積7.35km² の街区。とうぜん、その全てがドヤ街であったり、スラム街であったりするわけではありません。

歌舞伎町だけをみて「日本最大の歓楽街・新宿」と言ったら変ですよね。東京都庁のあるオフィス街も新宿ですし、デパートが立ち並ぶ商業地も新宿です。

それと同じで世間一般でイメージされるドヤ街やスラムとしての西成は西成区内のごく一部の地域に過ぎないのであって、それ以外の地域はちょっと寂れた感じの普通の下町の住宅街です。

では、世間一般にイメージされるドヤ街やスラムとしての西成とは実際の所どのあたりの地域をさすのか?厳密には区分できませんが、街の雰囲気から察するとこんな感じになると思います。

 

以下地図画像、青枠部分が所謂ドヤ街とされている地域です。クリックで拡大できます。

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ご覧のとおり、ドヤ街とされる地域は西成区の極一部に過ぎないのです。

地図内の青枠の部分を拡大するとこんな感じになります。

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北西の端にあいりん総合センター①があり、南東の端に三角公園②があります。

北は地下鉄御堂筋線上の大通り、西は南海本線線路、東は堺筋、南は三角公園周辺で区切られたこの地域が世間一般で言う所謂ドヤ街に相当する地域になります。

東側に関しては堺筋を越えた場所にも激安のホテルが存在するのでドヤ街の中に含めてもよさそうですが、このあたりは動物園駅前商店街や風俗街である飛田新地があって、観光地という色合いが濃い場所なので除外しました。街の様子も、ドヤ街のように昼間からオッチャンがフラフラ歩いていたり、地面に座って飲酒している人がいたりはしません。

南側に関しても三角公園周辺で区切られるというだけで厳密には定義できません。

 

この青枠のドヤ街ですが、「西成のドヤ街」という名称以外にも「あいりん地区」「釜ヶ崎」という風にも呼ばれます。

このあいりん地区という名称は行政区画としての正式名称ではなくて、1966年に行政機関と報道機関が作り出した造語です。「愛隣地区」つまり、隣人愛のある地区ですよ・・・という、まあ駄洒落のような名称で歴史的な由来とかは別にありません。

ただ、西成の住人がこの地域のことを「あいりん地区」と呼んでいるかというと、全然そんなことは無いんですよね。

また、「あいりん地区」という名称は報道機関もかかわって作られた名称なのに、当の報道機関は「西成」という名称を使っているわけで、じゃあ、あいりん地区という名称は誰が使ってるんだよという・・・・

もうひとつの「釜ヶ崎」という名称はその由来に諸説あって、

1、昔まだ大阪の町が埋め立てられていなかったころ、西成地区は海岸にあってその海岸の湾の形が鎌の形に似ていたから鎌・釜ヶ崎になった。

2、海辺に塩焼き釜がたくさん並べられていたので釜ヶ崎

3、江戸時代、無宿人宿場があったのでアウトサイダーっぽい人間でも住みやすい環境であり、その中にはゲイの男性(オカマ)もいた。たいていのオカマちゃんは華奢な感じの体格だったので、気の荒い労働者やヤクザ者にいじめられがちであったので、これは可哀想だということで、レディーファーストならぬオカマファースト・・・・つまり、オカマが優先(カマが先)の文化が根付いて、それが釜ヶ崎の由来になった。

などなど、いろいろな説があるのですが、とにかく「あいりん地区」という名称とは違って歴史的な由来のある名称で、地元の人間も「西成」にならんで「釜」という風に言うことが多いらしいです。

んで、さんざん「所謂、ドヤ街」と書いてきましたが現在の釜ヶ崎高齢生活保護者が住む福祉アパートがあったり、外国人バックパッカー向けの安宿があったりでドヤ街やスラムというイメージは薄まってきています。

結局、日本は資本主義の国なのだから世の中はお金の流れに沿って変化するのであって、近接する新世界が昔のちょっと怖い地域から明るい観光地に変化したように釜ヶ崎の街もやがては単なる安ホテル街や観光地に変化して、そのうち釜ヶ崎やあいりん地区という特別な名称で呼ばれることもなくなったりするんじゃないかなと思うのですが、どうなんでしょう・・・                                

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